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「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」
この分では永くなりさうだと思つて、房一が腰を浮かし気味にすると、
が、ふいに一つのことが彼の頭に閃いた。それは盛子の妊娠だつた。それもたつた今さつきはじめて耳にしたことにちがひなかつた。が、この事はすでにずつと前に聞き、彼の心にぐつと深く喰ひこんでいることのやうに、思ひ出すと同時に何か身体中がさつと目覚めて来るやうな厚ぽつたい感覚で蘇つて来た。
二三度声をかけたが返事がなかつた。すると植込みの向ふの診察所の入口に白い服を着た看護婦の紅らんだ顔がのぞいて、すぐに引きこんだ。と思ふと、どんな風に廻つたのかしれないが、同じ顔が思ひがけなく今度はひよいと突きあたりの壁の横から現はれた。
それはまさに、多くの矛盾、手前勝手を含んでいたにかかはらず、たつた一つの調子は常に変ることなく、何となく相手の耳に沁みこむ響を持つていた。それは、両親に絶えず圧迫され、理想化され、重荷を負はされて来た弱い子供の魂だつた。事実、彼は子供の頃から機械だの細工物だのいふ方面に特色のある才能を現していた。さういふ物をほしがつた。写真機、蓄音機、機関車の模型、それらをせがみ、片つぱしからこはし、次々と倦きて行つた。その倦きつぽさが正文を不安がらせた。殊に、そんな高価な玩具だの遊び道具は正文にとつて一種の贅沢物だつた。或る時、正文は思ひ切つて、それらの物を練吉から取上げた。造る物を見つけるとこはしてしまつた。抑圧した方がいゝと考へたものか、又欲しがる通りに与へて果していゝ結果になつたかどうかわからないが、いづれにしてもこの事は深く練吉の子供心を悲しませた。
結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。
一座はしづまり返つていた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つていなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いていなければならぬとは!
男は眼を閉ぢた。何も答へなかつた。
それで一たんは静まつたやうではあつたが、その中にはかへつて不気味な気配けはいが潜ひそまつていた。黒くかたまつた人達はその場を去らうとはしなかつた。房一が向ふへ行つている間に、構内の人影はすつかりいなくなつてしまひ、黒い建物の奥にちらついていた官舎の明りも見えなくなり、焚火も消されたが、それはしばらくするとちよろちよろと又燃え立ち、人気のなくなつた構内の庭を少しばかり明くしていた。が、下方では殺気立つた空気が暗らがりの中に暗く、圧するやうに籠つていた。あちらこちらに人はかたまり、がやがや云ひ、或る塊りは黙りこみ、その間を何人かが動き廻つていた。ふいに、投石したのかそれとも何か中の人が躓いたのか、建物の方でチヤリンといふ硝子ガラスのこはれる音が立つた。一所では焚火がはじまつていた。それは猛烈な勢ひで高く燃え上り、かこんだ人達の顔を赤鬼のやうに照し出した。が、すぐに制止され、小さくなつたが、又しばらくすると以前にまして燃え立つた。方々に大きい焚火、小さい焚火がはじまり、そのまはりに集つた人達はもうどうしても動く気配はなかつた。
彼は自信を失つた。それにこの苦痛と動揺は明らさまに説明しにくい、説明したところで判つてもらへない種類のことだつた。房一はそれを盛子の妊娠の揚合にも経験した。
「千光寺さんに使ひをやつたのかい。――誰もまだ行かないつて?――何あんて間抜けだのう。庄どん、お前一つ行つて来とくれ。提灯ちやうちんを忘れるなよ。もう皆さんがお集りですからお迎へに上りました、つて云ふんだよ。うん、うん、さうよ。いつしよにお伴をしておいで」
半之丞は誰に聞いて見ても、極ごく人の好いい男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑おかしいところを見ると、あるいはあらゆる大男並なみに総身そうみに智慧ちえが廻り兼ねと言う趣おもむきがあったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩こがらしの烈はげしい午後にこの温泉町を五十戸こばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前たてまえか何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折はしょる間まも惜しいように「お」の字街道かいどうへ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛くりげの馬が一匹繋つないである。それを見た半之丞は後あとで断ことわれば好いいとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨またがって遮二無二しゃにむに街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。それから麦畑をぐるぐる廻る、鍵かぎの手に大根畑だいこんばたけを走り抜ける、蜜柑山みかんやまをまっ直すぐに駈かけ下おりる、――とうとうしまいには芋いもの穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。こう言う災難に遇あったのですから、勿論火事などには間まに合いません。のみならず半之丞は傷だらけになり、這はうようにこの町へ帰って来ました。何なんでも後あとで聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬めくらうまだったと言うことです。
「お礼ですか」